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連載記事杉山慎策の経営学考察

山内容堂1

 司馬遼太郎は『酔って候』で魅力的な山内容堂(やまうちようどう)を描いている。恐らく彼のテーマは、明治維新という日本では数少ないクーデターを起こした人物と時代的背景に興味があったのであろう。それは司馬遼太郎の愛した、そして彼が取り上げるまで無名であった明治維新の立役者の一人である坂本龍馬を描いた『竜馬がゆく』にも表れている。彼の生涯のテーマはこの明治維新というクーデターにより作り上げた近代日本が、どうして制御棒もない「統帥権」という超法規的概念で77年後に国を滅ぼしかけたかにあった。

 今回は土佐の山内容堂についてである。主な参考文献は元侯爵山内家家史編集所の平尾道雄氏の『山内容堂』などを参考にしている。山内容堂、本名は山内豊信(やまうちとよしげ)である。本稿では通称の容堂と略すことにする。容堂ははじめ「忍堂」と名乗っていたが、容堂が尊敬する藤田東湖が「忍堂」の代わりに「容堂」を薦めたことにより以後「容堂」とした。

 また、「山内」は通常「やまのうち」と呼ばれることもあるが、山内家では「やまうち」と呼称しているので、本論でも「やまうち」が正しい呼び方であるとする。

 元々、山内家は関ケ原の戦いで東軍につき、山内一豊(やまうち・かずとよ)が長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)が治めていた土佐一国を与えられたことによる。一般には土佐は24万石とされているが、これは長宗我部時代の天正地検(天正15年(1587年))によるものであり、徳川家康から土佐一国を与えられた時の領地判物によれば20万2600石であった。山内一豊は城府を長宗我部が治めていた海沿いの浦戸から鏡川の少し上流の高知に移し、今日の高知市を作り上げた。一豊から数えて容堂は第15代目の藩主となる。

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本誌:2021年9月6日号 15ページ

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