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連載記事杉山慎策の経営学考察

山内容堂11

 建白書を老中板倉勝静(いたくら・かつきよ)に渡した後、後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)は海路土佐に戻った。容堂に上京するように説得するためであった。帰国すると容堂は後藤を中老・執政役に昇格させ、後藤は1500石の重臣となった。容堂は後藤の報告を受け、土佐藩の改革を進めることとした。改革の目的は二つあった。一つは万国公法による政治体制をつくることと、軍備の近代化である。しかし、乾退助(いぬい・たいすけ)などを中心とする守旧派の反対を招き藩は混乱した。

 土佐藩が混乱している中で後藤は容堂の上京前に京に上った。幕府内でも大政奉還には賛否があり、幕府方と薩・長・土との対立は先鋭化していった。11月15日には坂本龍馬(さかもと・りょうま)と中岡慎太郎(なかおか・しんたろう)が宿所の近江屋で襲撃された。刺客は京都守護職に附属する見回り組とされている。

 大政奉還が11月15日に天皇から勅許されたが、幕府に代わる政治体制ができていたわけではない。幕府討伐の勅命を受けていた薩長に対しては11月21日に実行を見合わせるようにとの内示が出ていた。新たな体制の討議のために諸藩に上京の指示が出された。11月中に上京したのは薩摩・芸州・尾張・越前など16藩だけであった。12月になっても上京したのは10藩程度であった。三百諸藩は形勢を観望するのみであった。

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本誌:2022年7月4日号 21ページ

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