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連載記事杉山慎策の経営学

山内容堂8

 文久二年(1862年)藩主豊範(とよのり)は東洋を城に招き、『日本外史(にほんがいし)』『信長紀(しんちょうき)』の講義を聴いた。最終講義だったこともあり酒肴が出された。亥の刻(午後10時)に散会し、帰途についた。折からの雨の中、自宅付近まで来たところで刺客に殺害された。首は鴈切橋(がんきりきょう)に晒された。東洋は「土佐藩窮乏の危機にある時に独り賄賂で潤った」と糾弾されていた。

 心ある人たちは武市瑞山(たけち・ずいざん)の一派の仕業ではないかと推測していた。事件後土佐勤王党の数名が脱藩していた。東洋殺害の刺客は瑞山の指示を受けた那須信吾(なす・しんご)、安岡嘉助(やすおか・かすけ)、大石団蔵(おおいし・だんぞう)の三人であった。彼らは伊予路から長州に逃れた。

 武士が不覚の死を遂げた場合、藩法では家名断絶となる。東洋の遺族は知行没収の上、東洋の長男源太郎(げんたろう)は母とともに縁戚の百々幸弥(どど・ゆきや)家に引き取られた。源太郎はその後正春(まさはる)と改称し、英学を修めて明治政府に仕官することとなる。東洋の義甥の後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)が、東洋が象二郎を育てたように、正春を大切に育てたのである。外務省書記官として伊東博文(いとう・ひろふみ)に従ってヨーロッパに外遊したりした。辞官後は後藤象二郎の大同団結に加わり機関紙の発行等で活躍した。

 容堂は文久3年(1863年)3月に土佐に戻ると、直ちに東洋暗殺の下手人捜索を命じた。土佐勤皇党に同情的な大監察小南五郎右衛門(こみなみ・ごろうえもん)や家老の深尾鼎(ふかお・かなえ)は解任された。

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本誌:2022年4月4日号 19ページ

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