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連載記事杉山慎策の経営学考察

山内容堂6

 東洋は参政の職を奪われ自宅に住むこともならず、朝倉の一農家に仮住まいすることとなった。その後すぐに長浜の柁ヶ浦(かじがうら)に移った。こちらは城下にも近く家族も度々会いに来てくれたが、移転して直ぐに大地震(1854年の安政南海地震)が起こり、安政二年(1855年)に鶴田(つるた)に新居を得た。以前の門下生を呼び講義もするようになった。この塾は少林塾と名付けられた。長曾我部元親(ちょうそかべ・もとちか)の菩提寺の少林山雪蹊寺(しょうりんざんせっけいじ)からとったものである。

 この少林塾には英才が集まった。東洋の義理の甥である後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)、福岡藤次(ふくおか・とうじ)、神山左多衛(こうやま・さたえ)、松岡七助(まつおか・しちすけ)、岩崎弥太郎(いわさき・やたろう)など、明治になって活躍する人物が東洋の下に集まった。岩崎弥太郎は曽祖父の時代に郷士の資格を売却し地下浪人の身分にまで落ちていた。岩崎は後藤象二郎や東洋から目をかけられ東洋が参政に復帰すると土佐藩の藩士として長崎に派遣され、後に三菱商会を創設する基礎を得た。土佐の大地震の翌年安政二年(1855年)に起きた江戸大地震により東洋の尊敬する藤田東湖が無くなった。

 越前藩主松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)の誘いに応じて容堂は島津斉彬(しまづ・なりあきら)、伊達宗城(だて・むねなり)や老中阿部正弘(あべ・まさひろ)などと図り水戸徳川斉昭(とくがわ・なりあき)の子の一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)を将軍にすべく動いていた。これに対して彦根藩主井伊直弼(いい・なおすけ)を中心に紀州藩徳川慶福(とくがわ・よしとみ)を押す派(紀州派)がいた。松平春嶽は容堂の夫人が三条実万(さんじょう・さねつむ)の娘であり朝廷工作のことも考慮し容堂を仲間にしていた。

 病死した阿部正弘に代わり堀田政睦(ほった・まさよし)が老中に就任した。幕府にとって最大の懸案であった日米修好通商条約の調印の勅許を得るために堀田は京都に上った。朝廷が頑なに攘夷を進めることに対して松平春嶽や容堂は「開港」も止むを得ないと考えていた。しかし、朝廷の考え方は簡単には変化しなかった。この間紀州派は大奥などと手を結び最終的に紀州派が勝利することになる。

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本誌:2022年2月7日号 15ページ

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