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連載記事杉山慎策の経営学考察

山内容堂4

 豊熈(とよてる)は歴代山内家の中でも学徳の高さで知られていた。豊熈の遺徳を記録した『耿光遺範(こうこういはん)』は寺田左右馬(てらだそうま)の編集によるものであるが、この序文を東洋が書いている。そして、東洋は嘉永元年(1848年)12月に船奉行を辞す。

 東洋と容堂とが交わるにはまだ数年の月日が必要となる。嘉永4年(1851年)病気療養を理由に表向きは有馬温泉に湯治に出かけたこととして藩外への旅行が許可された。東洋の旅宿先を訪ねてきた人物には陽明学者の奥宮慥斎(おくのみや・ぞうさい)などがいる。東洋は大坂から伊勢に入り、津の斎藤拙堂(さいとう・せつどう)にも会った。拙堂から土佐藩の収入について聞かれ、面くらったと記されている。拙堂は「当今関西の人物をあぐればまづ大垣の小原鉄心(おはら・てっしん)と土佐の吉田東洋か」と評し、東洋を高く評価している。

 その後京都に行き、梁川星厳(やながわ・せいがん)、頼三樹三郎(らい・みきさぶろう)、藤井竹外(ふじい・ちくがい)などと交流した。東洋はこの旅行を『有馬入浴日記』として書き残している。 

 後世ジョン万次郎あるいはジョン・マンとして知られる中浜万次郎(なかはま・まんじろう)は、天保12年(1841年)仲間4人と鰹船に乗り土佐沖に出かけたが遭難した。漂流中アメリカの捕鯨船のジョン・ホーランド号に救助された。船長のウイリアム・ホイットフィールドに可愛がられ、彼の故郷のマサチューセッツ州ニューベッドフォードで学校教育を受けた。万次郎15歳の時であった。その後捕鯨船フランクリン号に乗り組み、副船長にまで昇進した。しかし、帰国への情熱は高く、測量と航海の技術を身に着けた万次郎は嘉永4年(1851年)に琉球に上陸した。仲間4人の一人の重助(しげすけ)は既に病死していて、伝蔵(でんぞう)と伝蔵の弟の五右衛門(ごえもん)の3人であった。彼らは琉球から薩摩に送られ、取り調べの後に土佐に戻ってきた。嘉永5年(1852年)のことであった。土佐では歓待を受けた。

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本誌:2021年12月6日号 19ページ

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