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連載記事杉山慎策の経営学考察

山内容堂2

 容堂は安政元年(1854年)に参勤交代で江戸に向かい、将軍徳川家定(とくがわ・いえさだ)に謁見した。一年前に来航していたペリーは、対米和親条約を結び、下田と函館が開港されていた。激動の時代であった。

 容堂はこの時期、江戸の浜川砲台の強化と土佐の海防の強化、兵制改革などを手掛けていた。加えて時の論客などと広く交わり見識を深め、同時に容堂という人物を世に知らしめることとなった。

 この年容堂は水戸の藤田東湖(ふじた・とうこ)と会見した。側近の吉田東洋(よしだ・とうよう)や小南五郎右衛門(こみなみ・ごろうえもん)の推挙によるものであった。東湖は当時第一級の人物と称されていた。側近たちが侍る中で、酒宴を催し、小南五郎右衛門に「戦国時代であれば容堂を誰になぞらえるか」と聞くと、五郎右衛門が「恐れながら毛利元就(もうり・もとなり)」と答えた。容堂はこの答えに不満で、「元吉(東洋)ならば織田右府(おだ・うふ=信長のこと)と申すべきに」と不満げだった。東湖はこれをからかい、「おわかい、お若い」と揶揄したとのエピソードが残っている。お互いにかなりの信頼関係があったからこその会話である。容堂は忍堂と名乗っていたが東湖の提案で容堂と名乗ることになる。

 容堂が交流した人物には武芸者の千葉周作(ちば・しゅうさく)・斎藤弥九郎(さいとう・やくろう)・桃井春蔵(ももい・しゅんぞう)などがいる。画人では荒木寛畝(あらき・かんぽ)や春木南溟(はるき・なんめい)、能楽の喜多六平太(きた・ろっぺいた)、歌舞伎役者の市川団十郎(恐らく七代目のいちかわ・だんじゅうろう)、江戸火消しの相模屋政五郎(さがみや・まさごろう)などがいた。

 政治の世界では時の老中であった阿部正弘(あべ・まさひろ)とも親しくなった。阿部正弘は容堂を「即座の応答で若年ながら侮りがたい」と評していた。薩摩の島津斉彬(しまづ・なりあきら)とは縁戚関係で親しく、越前藩主松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)、宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)などとも親しく交流し、江戸の市中で英邁な若き藩主として知名度を上げていった。

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本誌:2021年秋季特別号 18ページ

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