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連載記事杉山慎策の経営学考察

村田清風3

 毛利家は関ケ原の戦いに敗れ豊臣秀吉により安堵されていた安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、隠岐と備中・伯耆両国のそれぞれ西部からなる112万石から周防・長門2カ国29万石に減俸された。その後、特に瀬戸内海沿岸で埋め立てなどにより領地を拡大し、寛永2年(1625年)には65万石、天保11年(1840年)には約90万石の所領を有していた。

 しかし、江戸後期になると商品経済が発展し、伝統的な農業(米)中心の経済から大きく変化を遂げる。長州藩も例外ではない。長州藩の商品経済の実態を丁寧にまとめ上げた芝原拓自氏の「幕末における政治的対抗の基礎的形成」によれば、やはり最大の産業は製塩業である。藩全体の収益の38%を占める。特に三田尻の製塩が一番大きい。その次は農村工業としてまとめられる木綿の約32%である。特に大島、上関、小郡当たりの生産が多い。江戸末期近くともなると長州藩の経済も近代的商品経済に取り込まれていることが分かる。

 農業経済から商品経済への大きなうねりの中で多くの藩が同じように財政破綻を迎えていた。仙台藩では借金が70万両、薩摩藩は500万両、土佐藩や加賀藩でも負債の返済に苦労していた。長州藩も天保9年(1838年)には債務が銀9万2000貫(金134万両)に達していた。

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本誌:2021年7月5日号 21ページ

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