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連載記事杉山慎策の経営学考察

村田清風2

 43歳で老公斉熙から財政整理の委託を受ける。同年手元役と郡奉行役を兼ねる。47歳で江戸番手直詰を命ぜられる。世子の毛利斎廣(第12代藩主)に将軍家斉の娘和姫を娶る。51歳で手回り組番頭格になり、江戸勤務となる。52歳で「清風」の印を初めて使用する。54歳の時に毛利斉熙逝去。また、毛利斉元公も逝去。55歳の時一般に「そうせい公」と言われる毛利敬親が第13代藩主となる。清風は都合5 人の藩主(心房、斉煕、斉元、如露、敬親)に仕えたことになる。清風は「そうせい公」と揶揄された毛利敬親の下でいよいよ長州藩の本格的改革をスタートさせた。清風は既に56歳となっていた。

 長州藩は慶長17年(1612年)に表高の決定のための形式的検地で36万石余とされていた。しかし、江戸末期の天保11年(1840年)ころには89万石を超える大藩であった。しかし、この石高は貞享3年(1686年)ころからそれ程増えてはいなかった。つまり約150年間石高には大きな変化がなく、長く経済は停滞していたと言える。同時に商品経済の進展により格差が拡大していった。このような中で藩は主要物産に対する統制経済を進め、紙・塩・蝋・藍などの主要産物の専売と搾取の強化を図った。

 このような商品経済の進展に伴う社会の矛盾を突いて、天保2年(1831年)に長州藩で一揆がおきた。これは防長大一揆と言われるもので、長州藩が産物会所を設置して専売制を強化したことにより、参加者は100カ村で13万人ともいわれる。周防・長門両国にまたがる全藩に広がる一揆となった。村役人と一緒に特産品の買い占めで暴利を貪っていた商人たちも攻撃の対象になった。各地の庄屋の屋敷も打ちこわされ、藩兵が鎮圧に当たった。通常五公五民と言われていたが、切羽詰まっていた長州藩はこれを一時九公一民まで引き上げていた。検地されない隠し田があることで庶民は救われたようであるが、武士クラスは勿論のこと、農民クラスも困窮していたことは間違いない。

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本誌:2021年6月7日号 17ページ

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