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連載記事杉山慎策の経営学考察

島津斉彬5

 斉彬は幕府の大型船の製造禁止策に対し、黒船来航への国防の一環として軍艦の建造を具申した。幕府もようやく黒船来航などの状況を鑑み建造を解禁した。斉彬は最初の西洋型軍艦として昇平丸を建造した。前回述べた「日の丸」を掲げた昇平丸は安政2年(1855年)2月に鹿児島湾で進水し、その後江戸に回航された。江戸では老中の阿部伊勢守や水戸の徳川斉昭なども見学乗船した。加えて、昇平丸はこの年8月に幕府に献上されることとなった。斉彬は国防のために大船十二隻を建造の予定であったが、在世中は昇平丸を含めて5隻の大型船を完成させるにとどまった。

 斉彬にとって蒸気船の建造は長年の夢であった。しかし、徳川幕府の意向により、200年以上大型船の建造は長く禁止されていた。従って、建造のノウハウは失われていた。斉彬は大型船の建造のために当時の著名な蘭学者である箕作阮甫等に依頼して船舶機関の書籍を翻訳させた。また、土佐の漁師であった中浜万次郎が丁度アメリカから琉球に送還され、彼から大型船舶についての情報を入手した。

 嘉永4年(1851年)には江戸田町藩邸において蒸気機関の雛形を作らせている。苦心の末に斉彬は安政元年(1854年)に蒸気船雲行丸を完成させた。雲行丸は隅田川を上り永代橋付近で多くの江戸市民にお目見えし、「薩摩公の蒸気船」として噂が広まることとなった。日本で最初の国産蒸気船である。

 斉彬は最終的に完成までには至らなかったが、蒸気機関を活用して汽車の製造も手がけていた。「海陸の差別あるのみで蒸気機関の活動に於いてはその理は同じ」と喝破していた。

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本誌:2021年4月5日号 21ページ

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