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連載記事杉山慎策の経営学考察

上杉鷹山4

 上杉鷹山の研究者の第一人者である横山昭男氏は『上杉鷹山』の中で、「封建君主にとって、農業が治国の根本であることはいうまでもない。」と述べている。幕末の黒船来航近くになるまで江戸時代の「治国平天下」の基本は農業政策であった。既に山田方谷の時に述べたが、山田方谷は早くから製造業(二次産業)の重要性に気づき、製造業(鉄鋼産業)を核とした経済の活性化に取り組んだ。鷹山の改革は方谷が改革を始めた1849年より77年ほど遡る。鷹山は二次産業や三次産業の重要性をそれほど意識せず、農業を中心とした経営改革を進めていくことになる。

 この重農主義を意識して鷹山が実施したのが、「籍田の礼」である。「籍田の礼」とは世界大百科事典によれば、「中国において親桑とともに勧農と豊饒を祈願するための農耕儀礼」と説明されている。皇后は「親桑の礼」を担当し、皇帝が「勧農の礼」を担当した。前者は桑つみと養蚕のための儀式であり、後者は農耕を重んじる儀式である。この二つを「夫耕婦績」と言い、周や漢の時代(紀元前1050~紀元後220年)に行われていたものを鷹山が安永元年(1772年)3月に、奉行職、代官などを参加させ、自らが鍬入れをして、復活させたものである。以後この行事は鷹山が在国の年は必ず実施された。刀を鍬に持ち替えて荒地開発や堤防修築など農業の重要性を藩内に浸透させる行事となった。

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本誌:2020年4月6日号 17ページ

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